今年も芸術の秋がやってきました。あちこちで大型美術展の広告を見かけますが、現在日本ではイギリスの有名美術館・コートールド美術館コレクションの展覧会が各地を巡回しています。コートールド美術館とは、繊維産業で財を成したイギリスの資産家、サミュエル・コートールド氏が収集した美術コレクションをベースに開設された美術館です。なんといってもゴッホ、モネ、マネ、セザンヌ、ルノワール…印象派を代表する巨匠の作品に会えることがこの美術展の最大の魅力です。一方で、本展の斬新な趣向は、美術研究のアプローチ方法がよくわかる展示構成。キャプションや図録に書かれている学説や解釈が、どのような科学調査や資料に基づいているのか一般人にもわかりやすく伝わるようになっており、名画の謎を解き明かしていくプロセスが垣間見えて楽しいのです。
1.いつもと違う切り口が面白い、美術研究のアプローチを見せる会場構成
通常の美術展では、シンプルな分類ごとに構成された展示構成をよく見かけます。例えば時代・年代別、画家別、題材別(風景画、肖像画、静物画…)など。
一方、本展では、3つのセクションに分けて作品が展示されていますが、各展示セクションのタイトルからして違います。
- 画家の言葉から読み解く
- 時代背景から読み解く
- 素材・技法から読み解く
つまり「読み解く」ことが最大のテーマ。通常の美術展では、美術研究で明らかになった結果や解釈のみがキャプションに書かれており、作品の謎を解くプロセスは詳しく明示されていないことが普通です。しかし本展では、作品が製作された時代背景や風俗を示す資料、画家自身の手紙、作品の化学分析結果、科学技術の進歩が美術に与えた影響など、作品そのものだけでなく同時代のさまざまな資料から作品を捉えることができるようになっています。これは美術研究のアプローチそのものではないかと思うのです。関連資料に基づき仮説を立て、化学分析などで検証していくプロセス。なるほど美術研究ってこういうふうに進めるのか~、と疑似体験できるところが斬新で面白いのです。
2. 充実した解説パネルで、名画の謎を解いてみよう
本展の目玉となる有名作品には、巨大な解説パネルが設けられ、鑑賞ポイントが図解でわかりやすく示されています。たとえば、展覧会パンフレットにも使用されているマネの最晩年の傑作、「フォリー=ベルジェールのバー」。

コートールド美術館展 入口パネル
(マネ作 「フォリー=ベルジェールのバー」1882年、コートールド美術館蔵)
やや憂いを含んだ表情のバーメイドが鑑賞者を正面から見つめる名画ですが、そもそもタイトルにある「フォリー=ベルジェール」とはどういう場所なのか、バーメイドはどのような立場に置かれた女性なのか…?これが分かるだけで随分見方が変わってきます。こうした鑑賞の幅が広がる情報を解説パネルにまとめてくれているんです。
フォリー=ベルジェールはフランス・パリに現存する大衆娯楽施設で、シャンソン・バレエ・オペレッタ・パントマイム・アクロバットなどが上演される劇場です。客席の壁は鏡で囲まれており、当時は壁ぎわの通路に沿ってバーカウンターが設置されていました。そこではバーメイド達によるドリンクの提供が行われていましたが、時に彼女達は娼婦となることもあったそうです。まさにパリの夜の光と影。こういった時代背景をパネルでしっかり解説してくれているので、何も予習せずに行っても作品の世界観にすっと入り込むことができます。
…こういう背景がわかってくると、なぜバーメイドが虚ろな表情をしているのか?彼女に話しかけている男性はどういう立場なのか?など作品のミステリアスな部分に自分なりの解釈を持つことができます。これがまさに、「謎を解く」感覚。そのほか、背景の鏡に映るバーメイドの後ろ姿がなぜずれた位置にあるのか?化学分析結果からわかったマネの製作プロセスは?マネのサインが意外なところに書き入れられている?など、この絵にひそむミステリーを考えるきっかけを提示してくれています。
こうした解説パネルはセザンヌ作「カード遊びをする人々」、モネ作「秋の効果、アルジャントゥイユ」、ルノワール作「桟敷席」、スーラ作「クールブヴォアの橋」、モディリアーニ作「裸婦」、ゴーガン作「ネヴァーモア」にも設置されています。オススメの鑑賞方法は、先入観なしに作品を見る→解説パネルを見る→もう一度作品を見るという方法です。最初に直感で作品を見て、作品に対する疑問を整理し、解説パネルで情報を補足して自分なりの解釈を組み立ててみると、謎解きの感覚を思う存分味わうことができます。

会場出口の撮影コーナー。
ルノアール作「桟敷席」と写真が撮れる。
3. コートールド美術研究所の研究力の源泉となった、収集家の矜持
本展で美術の謎解きを楽しむ中でふと気づくのが、謎解き=美術研究に関してこれだけの展示ができるということは、コートールド美術館は美術の研究拠点としても相当優れた場所なのではないか?ということ。それもそのはず、コートールド美術館はロンドン大学附属・コートールド美術研究所に設置された美術館なのです。
コートールド美術館の創始者であるコートールド氏は、合成繊維・レーヨンの生産事業で大成功を収め、莫大な富を手にしました。その資産をもとに美術品の収集を始めましたが、当時イギリスでの評価が低かったフランス印象派・ポスト印象派を精力的にコレクションに加えていきます。そして自らの美術コレクションを自邸とともに国へ寄贈し、イギリス初の美術研究所であるロンドン大学附属コートールド美術研究所が設立されました。コートールド美術研究所は美術史研究及び美術品の保存・修復に関して世界最高峰の研究機関として知られています。
本展を見て、コートールド美術研究所がなぜ世界をリードする研究所となったのか、その理由が理解できました。
どんな分野であっても研究所の体力、すなわち研究力は豊かな研究資源に支えられて向上していきます。研究資源とは、大きく分けてヒト、モノ、カネですが、このうちカネに関してはコートールド家の潤沢な資金によるサポートがありました。そしてモノ=研究対象となる美術品がなければ美術研究は難しいわけですが、これに関しては印象派・ポスト印象派の多くの作品が良好な保存状態で所蔵されています。コートールド氏はわずか10年程度の短い期間でこれらを収集しましたが、資金力と独自の審美眼でゴッホ、モネ、マネ、ルノアール、ドガ、ロダン…など数々の巨匠の手による名作を揃えました。特に収集当時、セザンヌは酷評されていましたが、コートールド氏が積極的にコレクションに加えたことで、貴重なセザンヌ研究の場が築かれたと言えます。本展ではセザンヌの製作意図が垣間見える直筆の手紙も見られますが、作品だけでなく関連資料をも所蔵していることは、美術研究の環境として理想的です。
そして充実した研究環境は、ヒト、すなわち世界中の優秀な研究者を惹きつけ、研究力がさらに向上していくという正のサイクルを生んでいきます。こうしてコートールド美術研究所は世界をリードする美術研究所となっていったのです。
コートールド氏は、たとえ周囲の評価が低くとも自分が良いと信じる美術品に対して溢れんばかりの情熱を注ぎ、貴重な美術研究の場となる一大コレクションを築きました。
果たして自分は、他人の評価に惑わされることなく彼のような強い矜持と熱量を持ち続け、自分の信条に向かって突き進むことができるだろうか?そんなふうにコートールド氏の生き様に刺激を受けることこそが、本展の最大の見どころなのかもしれません。
わたしは東京展(既に終了)へ行きましたが、このあと愛知県と兵庫県へ巡回するようです。お近くの方はぜひ。
【愛知展】
会期:2020年1月3日〜3月15日
会場:愛知県美術館(愛知県名古屋市)
公式サイト:https://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/000084.html
【神戸展】
会期:2020年3月28日〜6月21日
会場:神戸市立博物館(兵庫県神戸市)
展覧会特設サイト:https://courtauld.jp
【東京展】
会期:2019年9月10日〜12月15日<終了>
会場:東京都美術館(東京・上野)
公式サイト:https://www.tobikan.jp/exhibition/2019_courtauld.html
モネ、セザンヌ、ルノアールの作品は、現在横浜美術館にも来日しています。レポートはこちら↓