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人類の歴史は戦争の歴史。第二次世界大戦であれほど凄惨な戦争を経験してもなお、なぜ人間は問題の解決手段として戦争を使ってしまうのでしょうか。こうした人間の悲しい性にアートの力で立ち向かう様子を描いた小説、「暗幕のゲルニカ」(原田マハ著)は、小説の枠を超えてアートの力、戦争の愚かさを私たちに教えてくれます。
史実と創作を絶妙に織り交ぜ、現実味のあるアートミステリーで一気に読んでしまったので、ネタバレにならない範囲で考えたことを書きたいと思います。
実際にあった、「隠されたゲルニカ」事件。本当にすごいのは誰か?
誰が、何の目的でゲルニカを隠したのか?
2001年9月11日、米国ニューヨークで発生した同時多発テロの後、2003年に大量破壊兵器の存在を理由にイラク攻撃を決定・実行した米国政府。この武力攻撃を決定した国連安全保障理事会のロビーで、本来壁にあるはずのピカソの名画、「ゲルニカ」が紺色のカーテンで隠されていました。これは世界中で大きく報道され、「一体誰がゲルニカを隠したのか?」とあれこれ憶測が飛び、騒然となりました。
そもそも「ゲルニカ」は1937年、スペイン内戦で小さな農村であるゲルニカが無差別空爆を受け、多くの罪のない人々が殺された事件を受け、ピカソが戦争への怒りを表現したもの。オリジナルは現在スペインにありますが、複製として作られたタペストリーがニューヨーク国連本部の安全保障理事会ロビーに飾られています。そこはまさに記者会見が行われる場所。イラク攻撃を決定したという会見を、戦争の悲惨さを訴えるゲルニカの前で行うことになります。イラクへの空爆を始めると発表する時に、ゲルニカの反戦メッセージがカメラに映り込むことは都合が悪かったのでしょう。誰が指示・実行したのかは不明なままですが、会見ではゲルニカが紺色のカーテンで隠されてしまいました。
しかし、「ゲルニカを隠す」という判断を下したこと自体、戦争を主導した人間がピカソの名画の強いメッセージに畏怖を感じたことの証明です。彼らはアートの力をよく知っていたからこそ、隠したのでしょう。実際にはそれが大きく報道され、裏目に出てしまったような気もしますが。
ピカソの画力もすごいが、国連本部にゲルニカを飾る判断をした人もすごい
結局イラク戦争は実行されてしまいましたが、開戦の是非について大きな議論を巻き起こした「ゲルニカ」の功績は非常に大きいです。これはひとえにピカソの画力によって強烈なメッセージを感じ、暴力の連鎖が正しい問題解決方法か、立ち止まって考えさせられるからでしょう。私は残念ながらオリジナルを見たことはありませんが、徳島県鳴門市の大塚国際美術館で原寸大複製を見ました。ただただ圧倒され、言葉も出なかったことを覚えています。
画面に登場するモチーフー死んだ子供を抱いて泣き叫ぶ女、横たわり苦しむ人、家を焼け出され逃げまどう人、業火にいななく動物…あらゆるものが強いメッセージを発しているのです。「無益な戦争をやめよ」と。
結果的に戦争は繰り返されてしまいましたが、ピカソの「アートの力」が一定の抑止力になったことは間違いありません。少なくとも戦争論者に「これは隠さねば…」と思わせるほどには。
そしてもう一つ、私がすごいと思ったのは「国連本部にゲルニカを飾るという判断をした人」です。「ゲルニカ」が持つ「アートの力」を理解し、最も適切な場所に飾ったからです。国連本部にあるゲルニカのタペストリーは、アメリカの大富豪、ロックフェラー家財団の所蔵とのこと。ロックフェラー家の判断でここに飾られているのならば、これほど社会的に有用な美術品の活用方法は考えられません。ロックフェラー家の巨万の富をもってすれば、別途私設美術館を作って「ゲルニカ」を展示することは簡単なはず。また、私宅に飾って個人的に楽しむという選択肢もあったでしょう。しかしそれをせず、国連本部の、しかも会見が行われる安全保障理事会ロビーに飾るという決断は、ピカソが「ゲルニカ」に込めたメッセージを国際社会の意思決定者に否応なく突きつける、最も効果的な手段なのです。
「『ゲルニカ』のメッセージに反する政治的判断を本当に行って良いのか?良心の呵責はないか?」と。
素晴らしい英断だと思います。
ふたりの専門家の創作と解説で、ふたつの戦争をより深く理解する
「暗幕のゲルニカ」は上記の「隠されたゲルニカ」事件が元となって執筆された小説です。本書では、ピカソが「ゲルニカ」を描くきっかけとなったスペイン内戦と、それが隠される事態を生んだ同時多発テロ&イラク戦争、ふたつの時代を行き来しながら「ゲルニカ」が生まれ、そして国際社会の様々な思惑に翻弄されながらも強烈な反戦のメッセージで後世に影響を与えていく様子がドラマチックに描かれています。イラク攻撃に突き進むアメリカ。無益な暴力の連鎖に疑問を呈し、「ゲルニカ」の持つアートの力をでそれに抗議しようと奔走するのがニューヨーク近代美術館に努める学芸員の八神瑶子。果たしてピカソのメッセージは国際社会に伝わるのか…?
作者の原田マハさんは、もともと美術史がご専門で学芸員として活躍された後、作家としてアートを題材にした数々の小説を世に出しています。その専門性に基づいて綿密に調査を行い、事実の上に無理のない創作を展開しているので、どこまでが事実でどこからがフィクションかわからないほど。そして本書の文庫版の魅力は、スペイン内戦とイラク戦争、「隠されたゲルニカ」事件について、ニュース解説の専門家である池上彰さんの解説があとがきで読めること。アートとニュース解説、二人の専門家の創作と解説で、ピカソ、ゲルニカ、スペイン内戦、イラク戦争が面白くわかりやすく理解でき、単にエンターテイメントとして楽しめるだけでなく、小説の枠を超えて戦争について考えさせられる作品です。