新型コロナウイルスで日に日に重みを増す教授の言葉

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わたしは学生の頃、大学院でウイルス学の研究室に所属していた。ウイルスが人間に感染するメカニズムを解明することが、研究室のミッションであった。
わたしが研究していたウイルスは、既に30年以上にわたって研究されているものであったが、 日々研究を進めるにつれ「まだまだ未解明のことがこんなにたくさんあるのか」とただただ驚いた記憶がある。わたしが行っていた研究は、過去の研究者たちが苦心して積み上げたエビデンスの山に、 ほんの少しだけ新しい事実を重ねる程度のものであったが、 それでも多くの学びがあった。

時には徹夜で実験したりしながらウイルスと格闘した日々の中で、特に印象に残っている指導教授の言葉がある。教授はWHOや厚労省の会議にも出席される先生であった。当時二十歳そこそこのわたしにはその意味がよく理解できていなかったが、今思えばすごい先生に指導していただいていたんだと恐縮している。確か研究室の飲み会の席だったと思うが、しみじみと先生はこう言った。

「ウイルスは人間の隙を突いてヒトからヒトへと感染し増殖する。 実に戦略的で巧妙だ。」

ほろ酔い気分だったわたしは、 「へ〜そうなのか〜」というくらいの受け止めであったが、徐々にその意味を思い知ることになった。

研究室のセミナーや学会で様々なウイルスがヒトに感染するメカニズムを知るにつれ、わたしはウイルスに畏怖の念を覚えるようになった。たとえば1980年代に世界を恐怖に陥れたエイズの原因となる HIV (ヒト免疫不全ウイルス)は人間の免疫細胞に侵入して増殖する。ウイルスの侵入を受けた免疫細胞は最終的に破壊されてしまうので、 人間を外敵から守る免疫系が機能しなくなり、ウイルスにとっては邪魔者がいなくなって増殖し放題ということになる。サッカーに例えれば、人間チームのゴールキーパーがいない状態でPK戦に臨み、ウイルスチームにシュートを決められまくるようなもの。人間にとっては最悪だが、ウイルス的には合理的である。さらに性行為でヒトからヒトへ感染するというところも実に巧妙だ。 人間の本能的な欲求は時に制御が難しい。それを自らの増殖に利用するのはウイルス側にとって好都合である。

そうしたウイルスからの攻撃に対して、人間は様々な手段で対抗してきた。 そのひとつがワクチン(予防接種) である。病原性の弱いウイルスを体内に入れ、事前に免疫を作らせることで、感染症が流行した際に症状が出るのを抑えたり、たとえ発症しても軽症で済むようになるのだ。結果として病気自体の流行がみられにくくなる。
様々な感染症に対してワクチンは目覚ましい成果を挙げた。が、ワクチンとて万能ではない。予防接種をしてもうまく免疫を獲得できない人がわずかながら出てきてしまうのだ。また、病気の流行がなくなったのだから、わざわざ注射を受ける必要はないと思う人も出てくる。

こうして起こったのが、 2007年のはしかの流行である。 はしかは麻疹ウイルスによって引き起こされる感染症で、非常に感染力が強い。10代の学生にはしかが発生して瞬く間に広がり、多くの高校、大学が休校を余儀なくされ社会的に大きな問題となった。 はしかはワクチンで予防できる。はしかの予防接種は公費で受けられることになっており、 自己負担は必要ない。子供のいる人なら覚えがあると思うが、時期が来ると自治体から「予防接種のお知らせ」が来る。そこに同封されている書類を医療機関へ持って行くと、無料で接種が受けられる仕組みだ。

家庭の経済状態によらずワクチンの恩恵を受けられるシステムが作られているのに、幼児期に予防接種を受けない人は一定数存在する。 それに加え、幼児期に予防接種を受けたにもかかわらず免疫が十分に獲得できない人もいた。 つまり高校・ 大学の学生の中に「はしかに免疫のない集団」ができてしまい、そこがウイルスにピンポイントで狙われたのだ。

自分の身の回りにはしかの患者が見当たらないからと言って、ウイルスが消滅したわけではない。皆でワクチンを打ち、 免疫を獲得することではしかにかからなくても済んでいるだけ。ウイルスは普通に環境中に存在しており、免疫のない集団を見つければ 「隙あり!」とばかりにそこからみるみると感染していくのだ。 だからウイルスに対してつけ込む隙を与えてはいけない。
こうした事実を学ぶにつれ、私は教授の言葉の意味を実感を伴って理解した。ウイルスは侮れない。そして人間に感染を広げることに成功したウイルスは、人間の行動様式や弱点につけ込む適応力を獲得しているのだ。

では今回の新型コロナウイルスはどうだろうか?世界的に問題になってから約3か月しか経過していな いのに、様々な事実が明らかになってきていて驚く。関係者・医療従事者・専門家の方々は不眠不休で対応されているのではないだろうか。本当に頭が下がる。

これまでに分かってきたことの中で、新型コロナウイルスの戦略が巧妙だと思う点は4つある。
① 潜伏期間が長く、最大で14日間ある。
② 潜伏期間中にもヒトからヒトへ感染する。
③ 発症しても1週間程度は風邪と見分けがつかない症状。しかしひとたび重症化すると急速に悪化。入院患者を増やし医療リソースをひっ迫させる。
④ 特に「換気の悪密閉空間で多くの人が密集し、発声・会話する状況」 で効率的に感染を広める(クラスター感染)

これは人間の社会性を巧みに利用するウイルスだと思う。学校、職場、劇場、飲食店、スポーツ施設… 人間が集まって何かを行うことで成り立っている社会・経済活動は多くある。収入を得るためには仕事に行かなければならないし、友人知人と楽しく盛り上がれるような場もウイルスに狙い撃ちされている。そうした活動はもはや人間にとっては必須の営みなので、心理的にもなかなか控えられるものではないし 、それらを一斉に中止すれば経済的ダメージは図り知れないので対応は後手になる。体調不良といっても軽い風邪程度ならば、仕事や遊びに出かけるのは日常的に普通のことだ。それが初期症状の軽い新型コロナウイルスにとっては好都合となり、今回の未曽有のパンデミックを引き起こした。

さらにウイルス側には伝家の宝刀がある。それは変異だ。そもそもこの記事で紹介したエイズ、はしか、新型コロナウイルスはどこから来たのか?他の動物に感染していたウイルスが変異し、人間に感染する能力を獲得したと考えられている。エイズはサルから、はしかは牛から。新型コロナウイルスについてはまだ不明な部分が多いが、コウモリから来たという説がある。ウイルスは増殖する過程で遺伝子のコピーを作る際に、その配列を変化させることがある。これが変異だ。生じた変異はウイルスの性質を変化させることがあり、これまでは他の動物にしか感染しなかったウイルスが人間に感染する能力を獲得したり、人から人への感染が可能になったり、症状がより激しく出るようになったりする。治療薬が開発されても、耐性を獲得して薬の効果を無効化する。人間側で一度成立した免疫をすり抜け、複数回感染できるようになることもある。
実はわたしが怖いと思っているのは新型コロナウイルスの変異だ。パンデミックが進むほど、ウイルス遺伝子のコピーがどんどん作られ、変異が起こる可能性が大きくなる。するとウイルスの性質が変わり、今後「若い人は大丈夫」とか「8割の人は重症化しない」という前提が成立しなくなってくるかもしれない。ウイルスにとって、人間の油断はチャンスなのだ。

この文章を書いている時点で、 ヨーロッパや北米では医療崩壊が起こり、 多くの人が亡くなっている。 日本も予断を許さない状況だ。東京都知事が首都封鎖の可能性に言及し、不要不急の外出をやめるよう要請するなど、 緊迫した状況である。

「ウイルスは人間の隙を突いてヒトからヒトへと感染し増殖する。 実に戦略的で巧妙だ。」

という教授の言葉が本当に重い。 「自分は若いから大丈夫」「8割の人はひどい症状が出ないから平気」という油断がウイルスに隙を与える。そしてウイルスは確実に人間の油断をチャンスに変える。

もし、この駄文を最後まで読んで下さる方がいたら、ウイルスの恐ろしさをぜひ周りの人に伝え、どうか感染を広げるような行動をとらないよう伝えてほしい。 Buzfeedに専門家からのメッセージ(https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/message-from-corona-figthter-docs?bffbjapan&utm_term=4ldqpgp#4ldqpgp)が出ていた。経済的ダメージは避けられないが、人命あっての経済である。危機に陥っても、人間が生き残っていれば経済は立て直せる。しかし失われた人命を取り戻す方法はない。